髙木ちゃー 個展
「Oの魅惑」
会期:2022/10/1(土)〜10/16(日)
開廊時間:木・金 15:00〜19:00 土・日 12:00〜19:00
定休:月・火・水
会場:myheirloom(アーツ千代田3331内)
※祝日の開廊ルールについて
月火水の祝日は閉廊、木金土日の祝日は開廊とさせて頂きます。
時間等は通常営業と同様です。
myheirloom(マイエアルーム)ではこの度、新進気鋭の美術家、髙木ちゃーによる初の個展「Oの魅惑」を開催いたします。
ニコニコ動画やインターネットミームなど、2000年代後半から急速に伝播していった「画像イジり」とも言える二次創作文化。それらからの影響を公言する髙木は「画像の肖像」という独自の制作指標を掲げ、デジタル画像に関する概念をさまざまな方向性からあぶり出そうと試みています。そこには、画像データであっても非代替性を獲得しており、使いまわされていくことにより「身体」の欠損が認められることや、画像が存在する場所によって持つ意味が変わるミームの存在など「画像」という概念は単なる事物の複写ではない独自性を有するという考え方が根底にあります。
本展は”画像の肖像”の概念をビジュアライズした「Portrait」シリーズを一挙公開するものです。髙木によると、自身の制作は「様々なメディアを介するうちに変化し失われていく画像の一貫性を、二次元のディスプレイから三次元の支持体へ変換する作業を以って体現しようという試み」であり、「その過程で感じる”至らなさ”にこそ画像という存在の本質がある」と、そのスタンスを定義付けています。
以下、作家自身が標榜する本展のコンセプトテキストを掲載いたします。また、美術批評家であるgnck氏に寄稿を依頼し、彼女の表現が今後どのように深化していくのか、その可能性、方向性の一端をしたためて頂きました。二次元と三次元、双方の世界を行き来する肖像は、現実世界の身体との対比(パース、関節、重力)を図り、画像の特性が強調されています。是非画面越しではなく、会場で「画像」を見て体感頂ければ幸いです。
ーOの魅惑ー
Oとは、初等数学・3D空間における座標において、原点(Origin)を表す単語である。
直交座標系においてO点は二次元・三次元のいずれにおいても、0(零)に等しい位置に存在する。
0は本来、そこにないということだ。ある意味ではどこにでもあるとも捉えられる。
しかし、0以外の数字を数えない限り私たちは0があることを認識することができない。
私は画像の内面的価値をビジュアライズすることをテーマに作品制作を続けてきた。
本展で扱っている『Portrait』シリーズは、メディアを介するごとに失われていく画像の一貫性を二次元のディスプレイから三次元の支持体へ変換する作業を以って体現しようという試みである。
思春期のころから生身の肉体を持っていることにコンプレックスがあった自分は、
無機物であるデジタル画像には言葉では表現しえない魅力を感じていた。
自分にとって制作することが、画像たちと唯一繋がっていると思える行為だった。
私は、画像が私たちのような温度のある有機物と一瞬でも繋がることをずっと期待し続けている。
そしてそのための糸は、昨今話題のAIであったりバーチャルキャラクターではなく、
1000回試したうちの一回のバグのなかにこそあると信じて止まないのだ。
O点は、私たちが物理的に接触することができない概念的なものだ。
しかしその周辺について認識を高めることにより、近づくことは可能なのではないだろうか。
ランダムな座標に存在する画像の肖像を描くことにより、私たちが想像しえない完全な”Origin”への接近を図りたい。
髙木ちゃー
個展によせて
3DCGは、空間座標上に、点と点を結んで作ったポリゴンを配置し、その上にテクスチャーとして画像や、ライティングを施すことで像を得る手法である。今日では映画、ゲーム、Vtuberなど、現在の視覚文化には不可分の存在となって久しいが、絵画の画題としては、未だ「新しきもの」として期待されている向きもあるように見える。
像を得るために、3次元的な空間をシミュレーションによって電子的に構築しようという人類の試みは、この現実についての理解、つまり、物質の理解や光学的な知見、人間の認知特性についての深い理解が必須であり、それらを数学的言語で表現することで、コンピュータ上に実装されてきた。
物体を、点で結ばれたポリゴンと、ポリゴン上に貼り付けられるテクスチャとして理解、表現するのは、この現実そのものを再現する事とは、しかし実際には遠く離れた行為である。遠く離れているというのは、このシミュレーションの目指すところは、厳密な現実の再現ではなく、像を得るために抽象化された現実として、条件を整備しているということだ。現実における「面」とは、物質の塊の一番外側が見えているということに過ぎないが、3DCGにおける「面」とは像としての本質であり、その中身は空洞だ。3DCGにおいて、コリジョンを適切に設定してやらなければ、空間上の二つの面は反発することなく、それぞれ透過してしまう。そのため、二つの像はめり込んだように重なり合う。
3DCGの発展は、「より自然に」見せるために、現実の物理法則や、光学的な諸現象を取り込み、シミュレートしていくことで進展しているが、高木は幼少期に影響を受けたという、より人工的な様相の3DCGをあえてモチーフとする。3DCGのキャラクターは、2Dの絵として描かれたキャラクター以上に、非生物的な要素が強く見えてくるだろう。言葉を変えれば、それは人形的に見える、ということでもある。人間の似姿でしかないキャラクターが、グレーのサーフェイスを持って空間に配置される時、それは人工性をより明示していることになる。
高木の戦略として、3DCGに着目することは、悪くない(戦術として、より具体的にどのような表象を用いるのかには、注文がいくらかあるが。それは、絵画へと再度手をつける以上は、ポスト・インターネットのムーブメントの作家たちに共通する朴訥なCG使いを批判/更新する要素がほしいということだ)。その上で、人工性の表象が重要なのか、かつての3DCGが、その当時の文化込みで重要であるのかは、作家がこれから判断し、制作していくことだろう。モチーフとは、必然的に、背景の文化をも背負ってしまうものだ。それをどう料理しきっていくのかが、作家の力量である。
gnck