須釜衣緒里 中村奈津希
「山とヒール」
【開催概要】
会場/myheirloom
東京都中央区日本橋大伝馬町11-10 西井ビル 3階
会期:2025年10月11日(土)〜10月26日(日)
木金 16:00〜19:00
土 13:00〜19:00
日 13:00〜18:00(会期最終日は17:00閉場)
※月火水曜/祝日は定休となります。
※曜日によって開廊時間が異なります。ご注意ください。

myheirloomではこの度、須釜衣緒里と中村奈津希による二人展『山とヒール』を開催いたします。
本展は、二つの異なる「生」の探求が交錯し響き合う場となります。一方は内省と知性によって、もう一方は直感と身体を通じて、それぞれが捉える生の根源に迫るものです。対照的な両作家の共演は、現代を生きる人間の存在、そして世界の捉え方についての問いを描き出すでしょう。
須釜衣緒里:反復する営みとジェンダーの痕跡
須釜衣緒里の絵画は、表面的には抽象絵画の形で描かれているものの、「なぜ鑑賞者は私の絵について『女性を描いたもの』だと捉えるのだろうか?」という彼女自身の問いが示すように、その主題はジェンダー的な表象、そして個々の「生き方」と切り離せない関係にあります。
この問いは、例えばジュディス・バトラーが自著である『ジェンダー・トラブル』で展開した「パフォーマティヴィティ」のような概念との共鳴を考えるべきかもしれません。バトラーは、ジェンダーが生物学的な本質ではなく、社会的な規範に従った振る舞いや装い、そして言葉といった反復的な「行為」によって積み重なり、絶えず「生成」されるものだと主張しました。
須釜の作品に描かれる絵の具の重なりや堆積した日常品(ヒールを含む)は、この「生成」のプロセスにおける痕跡であると言えるのではないでしょうか。また、反復される振る舞い・行為の集積でありながら、同時に規範的な圧力により身体に書き込まれた記号であるとも言えるでしょう。
「性」そのものを表現するのではなく、むしろ表層的なものがいかにして外部の眼差しや社会的な要請の蓄積によって構築されているかという批判的な視点は、自身の振る舞いにより絶えず生成され揺れ動く「不確かな存在」として積み上げられたマティエールに現れています。
彼女の描く対象が本質的な自己表現(性・身体)の類ではなく、その時代の空気感や記号だと捉えることで、自明とされる日常の風景(ヒール)を介した自己や他者に対するラベリングに対する疑問、問いかけであるとも読み取れるのです。
人の生き方、すなわちジェンダー化された主体としての存在は、パフォーマティヴな行為の時間的・反復的な側面と不可分です。人は、「生」のあやうさ(precarity)を抱えながら、社会からインテリジブル(intelligible、理解可能)な主体として認められるために、この規範的な反復を「強制される」ように生きるのです。
須釜作品が持つ色彩と表装は、これらの視点と社会の規範がもたらす抑圧的な構造そのものを象徴しています。同時に、私を私たらしめているものはこれまでの時間と経験により得た事物、感情の積み重ね、振る舞いであることを誇示するための証としても成立しているのかもしれません。
彼女によって積み上げられたマティエールは、数百年後には鑑賞者にどのような受け取られ方をするのでしょうか。現代と言う空気を吸い、身の回りに存在していた日用品は、まさに作家自身の行為・振る舞いにより反復し、規定されていきます。そのような過程と、制作におけるプロセスをクロスさせた時、初めて須釜が表現したい時代感や塗り重ねる行為それ自体の意味が見えてくるのかもしれません。
中村奈津希:身体と世界、多層的な知覚の痕跡
須釜とは対照的に、中村奈津希の作品は、タイトルの「山」が象徴するように、理屈を超えた根源的な自然のエネルギー、そして物質の質感そのものといった、作為的でない力の本質を捉えています。彼女の創作は、地元である熊本の火山や積まれた石垣といった自然の風景、そして日常の日記に綴られる無意識の思考といった、純粋な力を持つ事物を新たな形に変換する作業とも言えるでしょう。中村が石灰という硬質なメディウムを用いて、絵具を「奪い取る」ように描く行為は、彼女の身体が物質と対話し、自然のエネルギー(山)を画面に定着させようとする姿勢の表れなのです。
中村は、自身の絵画に対する見方について、「絵があることでそこにはない場所や時間が変質し、私たちが捉えている物事の見え方が変わる」「多くの自然から感じる不思議なエネルギーは、白いキャンバスから発せられるものと感覚的に似ている」「白いキャンバスとの対峙は、人間が自然に手を加えたり、自分たちの生まれた場所から生きる場所へと変容させたりする行為に近い」と主張します。
これは、メルロ=ポンティの著書である『知覚の現象学』や『眼と精神』の論考に通じるところがあります。メルロ=ポンティは、世界を身体と世界とが分かちがたく織り合わさった「肉(la chair)」として考えました。同時に、身体は世界を認識するための道具ではなく、世界そのものと繋がっている根源的な「肉」であり、この「肉」を通して、私たちは重力や空間といった見えない力を意識ではなく身体で感じ取り、世界が自分に「入り込んでくる」という体験を可能にすると主張します。
世界(自然)の肉、つまり山や草木、土、石垣といった自然は単なる形態ではなく、作家の身体がその場所で感じ取った重力、温度、匂い、そして時間(事象の積み重ね)といった、多層的な知覚の痕跡を内包しています。中村が自然に感じるエネルギーは、この知覚の肉として世界が発する力です。
一方で白いキャンバスは、まだ何も描かれていないながらも画家との関係性においてはすでに「描かれるべき世界の可能性」を秘めた物質です。それは、画家が世界と触れ合い、知覚を移入するための「第二の肉」として機能し始めます。自然とキャンバスが似た感覚を発するのは、どちらも画家(身体)にとって、世界との根源的な交流と知覚を開くための物質的な「場」であるからでしょう。
中村の作品から感じられる荒々しい力強さは、社会的な意味付け以前の理性や概念を超越した、生命そのものの存在を強烈に感じさせるものです。中村はこの「多層的な事象」を内包する自然の感覚を、白いキャンバスという物質を通して再現し、鑑賞者の意識にその深さを伝えることを目指していると言えるでしょう。
交錯する痕跡と「生」の叫び
須釜と中村、両作家の創作の根底にあるベクトルが互いに補完し合い、一つの大きなテーマを浮かび上がらせることに、本展の意義を見出すことができるでしょう。
一方が「社会的に構築される生(ヒール)」を、もう一方が「根源的に湧き上がる生(山)」を探求する中で、両者が共有する「Gynandromorph(雌雄モザイク※両性具有)」的な世界観、すなわち二項対立を超越した、曖昧で流動的な領域へと収束していくのです。
展示空間内で、対極にある二つの世界の対比を目の当たりにするとき、鑑賞者は自らの存在がいかに多義的で、そして流動的であるかを再認識することになります。同時に、異なるベクトルを持つはずの両名の作品にどこか近しいものを感じるとするならば、それは創作行為を通じて「生」を開放し、自身の居場所や立っている場所、この瞬間の自分を認識するためのある種の「叫び」のようなものが共鳴しあっているからかもしれません。
『山とヒール』は、私たち自身の内に存在する「規範と本能」の間の曖昧な領域を映し出し、双方が交錯する対話の場となります。両作家の作品の間で生まれる調和を体験することで、「生」の多様性を再考する機会となれば幸いです。
須釜衣緒里
Iori Sugama
2001 年 埼玉県生まれ
2023 年 東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業
中村奈津希
Natsuki Nakamura
1999年 熊本県生まれ
2022年 東京藝術大学絵画科油画専攻卒業
展示に寄せて
須釜衣緒里(すがま・いおり)と中村奈津希(なかむら・なつき)は2人展「山とヒール」を開催いたします。
2人はともに東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業したペインターで、抽象画を制作していますが、その方向性は大きく異なります。
須釜(2001年生まれ)は、ジェンダーやフェミニズムを思考しながら制作しています。自身の作品に物質性を見出している須釜の作品には、性別を想起させる既製品―例えばヒールや革靴、衣服―が取り込まれています。私たちの日常に潜むそのような既製品が抽象画とともに現れると、物質としての存在感を増し、そのものが抱える意味を見つめ直さずにはいられません。
一方中村(1999年生まれ)は熊本県出身で、自然と触れ合いながら幼少期を過ごしてきました。「絵画を制作することは、山の中に入ることに似ている」と、作家は話します。画材に石灰などを混ぜて制作した作品には、カラッと乾燥したマチエールが表れています。それらは、中村が特に興味を持つという自然の中にある砂や動物のテクスチャを思わせます。
社会的に構築されるジェンダーの規範に対して切実に挑み続ける須釜。自然が持つ肌理や、環境そのものに関心を寄せる中村。ともに抽象画を実践するにも関わらず、2人の作品は対照的です。
「山とヒール」という展示タイトルも、その対照性を明らかにしています。ふつう、ハイヒールで山、自然に挑むことはありません。しかし険しい山をヒールで分け入っていくイメージと共に展示会場に入ると、両者の作品の対話を感じられます。自然を志向する中村の作品は人の手で作られた土壁のように、須釜が会場の床に敷き詰めた黒く染色された衣服は、自然に還るような、大地のようにも思えてきます。二人のモチーフが両者の作品の中にも見えてくるようです。
どこからが自然で、どこからが人工なのか。その境界は実は曖昧なのかもしれないーーそんなことが、2人の展示空間から感じることができるのではないでしょうか。2人の作品が、その境界を緩やかに侵食し合う空間を、お楽しみください。
貞方梨七